エッセイ

水曜随想 「提案へ共感広がっている」 田村貴昭衆院議員

「シートベルトをお締めください」。アナウンスが流れ、機体が滑走路に向かい出すとうつらうつら…。飛行機に搭乗したら条件反射的に眠りにつく。着用サインが消えて安定飛行に入った頃に目が覚める。自慢ではないが特技である。

そのあとは追い込み。演説や講演の準備に尻をたたく。資料に目を通し、パソコンをカタカタ。もともとギリギリにならないと動かないたちである。本稿も締め切りギリギリの機内で書いている。この頃は機上でもインターネットに接続できる。そうすると大方の仕事は飛行機に乗ってからできるぞと、愚かなことを考えまたカタカタ…。

そんなこんなで10カ月、九州と国会を行き来してきた。まだ10カ月しかたっていないが、解散・総選挙の実施を求める重大事態にある。立憲主義を踏みにじり、戦争への道をひた走る安倍首相。安保法制を放置しては、日本の平和と国民の命が危機にさらされる―安保法制廃止の国民連合政府を呼びかけて各県各地を飛び回っている。

「田村さんの40分の話に論戦や運動の到達と展望が凝縮されていた。今までがんばってきたことに確信が持てた」「清水の舞台から飛び降りた英断に敬意を表したい。私も連合政府実現にがんばりたい」。力強い感想が相次ぐ。国会報告会はどこも盛会だ。宮城県議選での共産党大躍進にみられるように、私たちの提案に共感が広がっている。

アベ政治の異常は、国会を開かないという究極の異常事態となっている。国会閉会中だが、いま私は開会中より急がしい。飛行機の中での作業も増える一方だ。(しんぶん赤旗 2015年10月28日)

水曜随想 「この国には9条がある」 田村貴昭衆院議員

 「IS(過激組織「イスラム国」)が日本公館を攻撃するといいよるが、何もせんでいいのか」。安保法制報告会で参加者から質問が寄せられた。

 ここは丁寧な議論が必要だ。「目には目を」の論調では戦争になってしまう。なぜISがそういう言動に走っているのかを見極める。国際協調で追い詰める・・・ちょっと重くなったところ、別の参加者が意見表明。「この国には9条がある。戦争はしないと主張することが大切だ」。雰囲気が和んだ。70年の不戦の歴史は不動の確信だ。

 明治維新から先の大戦までの77年間、日本は戦争ばかりしてきた。しかし、新しい憲法と歩んだ70年の不戦の歴史は、もう少しでそれを超える。80年、90年、100年と伸ばしたら、日本国憲法が世界のスタンダードになるに違いない。

 街頭演説をしていたら声をかけられた。「若者の貧困、非正規化が自衛隊員の獲得につながる。もっと言ってほしい」。徴兵なしでも軍隊は維持できる・・・本当にそうだ。アメリカがいいお手本だ。

 「もし本当に中国や韓国が攻めてくるというのなら、僕が九州の玄関口でとことん話す」―福岡の大学生のスピーチが共感を呼んでいる。とってつけたように「平和外交が基本」と述べる安倍首相の答弁がしらじらしい。

 戦争法案をめぐり、茶の間や井戸端でもいろいろな議論が交わされてきた。私は、たくさんの人の言葉に学んだ。その言葉の中にこの間題の解答がある。

 直近の世論調査でも安保法制に反対が多数である。空前のデモと集会が国会を取り巻いている。違憲か合憲か、戦争する国か9条生かした外交か―すでに決着はついた。国民の側の勝利だ。この勝利ひびけ、とどろけ。(しんぶん赤旗 2015年9月16日)

水曜随想 「若者の行動すばらしい」 田村貴昭衆院議員

 夜、議員会館を出たら、交差点で数人の学生がスマホをのぞいている。「国会の正門はこっちの方向だよね」 そうか、SEALDs(シールズ)の行動に向かうのか。誰に誘われたわけでもない。インターネットで情報を得て、友達と連れだって参加する。時代は変わった。

 安全保障関連法案に反対する学生と学者の共同行動のデモ隊を衆議院の前で激励した。シュプレヒコールの音頭をとる人がいない。街宣車が先導するわけでもない。〝デモ慣れ〟していない人たちの静かなデモ。だからかえってインパクトがある。

 これまで政治活動とは無縁だった人たちが、いてもたってもいられないと、立ち上がっている。戦争法案反対、憲法まもれと声を上げている。

 しかし、聞く耳もたぬ安倍暴走政治は、さらにアクセルを踏み込む。自民党の若手議員が学生たちの活動を「彼ら彼女らの主張は『戦争に行きたくない』という自己中心、極端な利己的考えに基づく」と非難した。安保法制案が戦争参加であることを自ら認めたようなものだが、戦前にタイムスリップしたような発言に開いた口がふさがらない。

 もし、私が政権与党の立場にいたらこう言うだろう。「若い人が政治への関心を持つことは大変すばらしいこと。じっくり耳を傾けたい」。自民党議員の数々のおごり高ぶった発言は、この国の主権がどこにあるのか全くわかっていないことを言い表している。

 SEALDsは、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションの意味。彼ら、彼女らの方がよっぽど自由と民主主義の意味がわかっているよ、自民党さん。(しんぶん赤旗 2015年8月5日)

水曜随想 「激励と宿題いただいて」 田村貴昭衆院議員

 
 NHKのドラマ「ちゃんぽん食べたか」。さだまさしさんの原作タイトルは「ちゃんぽん食べたかっ!」で、「食べたい」との意味である。哀(かな)しくもおかしい青春群像に見入るうち、無性にチャンボンが食べたくなった。

 国会では、たいがいの情報は手に入るが、食べつけたものが口に入らない。週末、九州に戻る原動力の一つは「食」となる。この前の土曜は小倉発祥の焼きうどん、日曜は長崎チャンボンの店に飛び込んだ。やっぱ、うまいっちゃ。

 さて、馬力がついたところで、各地の国会報告会へ。戦争法案の問題点、論戦の到達を語れば語るほどに、撤廃への闘志がわいてくる。「自衛隊員の自殺問題をもっと教えて」「辺野古への土砂搬出を九州からとめよう」「18歳選挙権は大丈夫?』など、安倍政権への怒りと疑問の声も数多く出され、会が終わっても、廊下で参加者との懇談が続く。この真剣なまなざしをしっかり胸に刻もう。

 えっ、国民保護法に基づく避難地域の策定は「ミサイル攻撃を想定」だと? そんな文書が学校などに流れていることを、福岡県議の高瀬菜穂子さんの報告で知った。地方選での躍進は、住民から重要な告発の情報を呼んでいる。国会でも調べてみよう。

 「これ食べてがんばって」。とある報告会で手渡された。九州名産のそうめんとラーメンだ。麺づいているなあと苦笑。「ハハ、田村さん〝麺食い〟だね」と合いの手も入った。よし、安倍政権の悪政ざんまいをスルスルと飲み干してやろう。激励と宿題をいただいて、また国会へ。(しんぶん赤旗 2015年7月1日)

随想 手の腫れと沖縄の痛み 田村貴昭衆院議員

先週、沖縄に向かう機内で『大きなソテツはみていた』(入江幸子・いのうえしんぢ著)を読んだ。ソテツの木が沖縄戦を語る絵本であるが、こんなくだりがある。昔から床の間に置く家の宝物は、中国では硯(すずり)、日本では刀、沖縄では三線(さんしん)であると。

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戦を好まず、楽しく穏やかに暮らしてきた沖縄の人々にとって、70年前の惨劇は、決して消し去ることはできない。土地を強制的に取り上げられ米軍が居座り、さらに辺野古へ巨大な基地を押しつける。政府よ、この苦しみがわからないのか。県民集会に参加し3万5000人の参加者とともに声をあげた。

帰りの便で、ふと手の痛みを感じた。見てみたら手の甲が腫れ上がっている。虫に刺されたのか、痛みもある。よし、これは沖縄県民の怒りだとして、記憶にとどめ置こう。

自宅の近くの駅のバリアフリー化がすすんだ。「一つ前が病院には近いけど、お年寄りはこの駅で降りるよ。エレベーターがついたけね」。なるほど、このところ膝を痛めている私にはよくわかる。

戦争法案の審議がはじまった。自衛隊が武力攻撃を受ける可能性があるのに、「リスクは下がる」とうそぶく安倍首相。かつて腹痛にさいなまれた首相は、そのとき人の痛みにわが身を重ねて考えることはなかったのか。アメリカでは年間8000人もの帰還兵が自殺する。人を殺して自分も傷つく。それが戦争だ。

想像力の欠如は他人を不幸にし、ひいては自分にはねかえってくる。そんなことを考えていたら、手の腫れと痛みは治まった。しかし、消えない傷、癒えることのない痛みほど、悲しいものはない。それがわからぬ政治家には退場してもらおう。(しんぶん赤旗 2015年5月28日)