学者や弁護士らでつくる「なくそう貧困!福岡県民実行委員会」が3月1日に開いた「相談会」(福岡市・警固公園)には「派遣切り」にあった人など三百人が訪れました。翌日に取り組まれた生活保護「集団申請」を案内するなど、“命をつなぐ”取り組みが展開されました。(藤川良太・竹原東吾)
泣き崩れる男性横浜から転々と
終了間際に相談に訪れた男性(二一)はパイプいすに座り泣き崩れました。数週間前に務めていた横浜市の飲食店が倒産し職を失いました。母子家庭で十四歳になる妹は来年、高校進学を控えます。一生懸命に働く母親に迷惑をかけられないと思いました。失業が恥ずかしいという気持ちもありました。どうしていいのか分からなくなり、会社の寮を飛び出し、京都、大阪、鳥取と転々とし、たどり着いたのが福岡でした。
博多駅に着いた時点で所持金は一万円を切っていました。所持金がなくなるにつれ不安が募りました。「おれ、何してんのかなあ」。
それでも解決策が分からず、所持金は尽きました。相談会を訪れたのは、福岡に着いてから五日後でした。福岡での全食事は、カップラーメン二つと牛丼一杯。昼間は地下街で過ごし、福岡に着いて三日目から夜は公園で寝ました。物音がするたびに目が覚めました。
近くを通るバイクの音で想像したのは、「死なない程度なら殴られて、慰謝料取れないかなあ」。路上生活のなかで、身なりだけは清潔に保とうと決めました。湯の出る障害者用公衆トイレで洗髪もしました。理由は「バッグが大きくても、汚れていなければ旅行者に見えると思った」。見た目だけでも清潔に保たなければ、すべてが終わってしまいそうな気もしていました。
相談会にたどり着いてもすぐにはテントに近づきませんでした。「若いのに何してんだ」「甘えている」などと責められるのではないかという不安で胸が締め付けられました。不安を勇気で押しつぶし、職を失ったことを話すと涙がこぼれました。
相談会後、実家に電話をかけました。翌日には生活保護の集団申請に参加しました。横浜に帰ることを決め、生活保護世帯等一時貸付金を申請し、夜行バスで横浜に向かいました。「相談会に来てよかった」。こんな言葉を残しました。
裂けたくつで大分キヤノン解雇
大分キヤノンを昨年十二月末に解雇された勇性(三〇)は、肺に痛みを感じ、健康相談を担当した医師から「気胸」を疑われました。
当日、ハローワーク前でボランティアに声をかけられ、「相談会」を訪ねてきたといいます。
この男性は解雇後、大分市のハローワークから福岡市内の部屋を紹介され入居。現在は、失業給付を受給しながら求職活動中です。くつのかかと部分は、大きく裂けてボロボロです。「お金がなくて買えません」と恥ずかしそうな表情を浮かべました。
二、三の両日、福岡市は、「相談会」を訪れた人たちを対象に、生活保護の集団申請を受け付けました。会場となった博多区役所には朝から申請者が訪れ、パイプいすに静かに腰をおろし、順番を待っていました。
「相談会」で紹介され集団申請に訪れた京都府出身の男性も、聞けば、昨年末、岐阜県の東芝で「派遣切り」にあっていました。わずかな蓄えを持ち、職を探すために上京。「年越し派遣村」にも行ったといいます。職を探すため、カプセルホテルに泊まりながら、福岡まで南下。しかし一月末、行動をともにしていた元同僚に手持ちの金十三万円を持ち逃げされ、一気に路上生活に陥りました。
天神中央公園、夜は博多駅で寒風を避けながら過ごし、一つ十円の駄菓子を水でふやかし量を多くするなどして、空腹を満たしたといいます。ただ、水ばかりを飲むため、毎日下痢が続きます。
生活保護の申請を済ませ、一時貸付金の一万円を受け取った男性(三八)は、「助かった」と安どの表情を浮かべました。「はやく普通の生活に戻りたい」(しんぶん赤旗2009年3月10日)